哲学

疑え。疑うな。

「我思う、ゆえに我あり」フランスの哲学者デカルトの言葉です。彼は真理を解き明かすに当たって、まず疑うことから始めました。

「疑うこと」というのは大切なことですよね。なんとなくマイナスな響きを持っていますが、それは「立ち止まって考えること」であり、時に自分の誤ちに気づいたり、新しい発見をもたらしてくれます。

ここでは「疑う」ということについて私なりの考えを述べたいと思います。

 本題に入る前に、余談を一つ。この記事を書いている現在(2020年4月の下旬)、目下コロナウイルスが猛威を振るっています。見えざる敵の作り出したイレギュラーな状況に、世界中の人々が、不安になったり、悲しんだり、怒ったりとなんとも暗い気持ちになります。そんな折に私の父にも大型連休ができてしまい、「さぞ父親も焦っているだろうな…」と思っていたのですが、当の本人はこれ幸いと、お菓子とジュースを買い込んで自室でのアニメ鑑賞に精を出していました。ちなみに父は50歳を過ぎています。兎にも角にも父のしたたかさには感心いたしました。事実は事実として重く受け止めて、行動しなければいけませんが、暗くなってばかりもいけませんね。とはいえ、我が家のエンゲル係数の低下は免れないかもしれませんが(笑)

本題に戻りましょう。では、「疑うこと」を今回話題に取り上げたのはなぜなのか。それは私が懐疑主義者であるためです。なかなか耳馴染みのない言葉だと思いますので、簡単に説明させていただきます。要するに私は何に対しても疑う態度をとるということです。「疑り深い」あるいは「用心深い」と換言していただいても構いませんが、ニュアンスは少し異なります。1つ具体例を載せます。

教育を例にとります。勉強のしない生徒にみなさんはいかに接しますか?圧力をかけてやらせる。報酬を与えてやらせる。そもそも勉強させない。自発的にやるように仕向ける。色々方法がありますよね。それでは、なんのために勉強をさせますか?その子のため。自分のため。他のだれかのため。何か問題に向き合った時、私たちは複数の選択肢から正解と思えるものを導きだします。その際に、なんのためにということも同時に考えます。私はこのあらゆる方法、目的に疑いを向けます。

「強制的に勉強させてもそれは一時的なもので、根本的な解決にはならないのではないか。だからと言って、本人を放っておいても知識が身につくはずもない。本人の自発性を引き出そうにも、コストも時間もかかりすぎる。そもそも、目先の成績向上にこだわるのは教育者の名誉のためであって、生徒のためではないのではないか。いやいや、生徒のことを思うからこそ、目に見える形の結果が求められるのではないか。そもそも、知識を与えることがこの子のためになるのか。他に伸ばすべき、目を向けるべき才能があるのではないか。あるとしたらそれは何か。どのように判断すれば良いのか。」

こんな具合に思考が展開していきます。これは、いわゆる葛藤ですね。皆さんも一度は体験があるでしょうし、珍しくもないともいえますが、特異な点は万事おいてこのようであることです。とりわけ、抽象的で相対的な事柄においてです。

ここまでのことをまとめます。すなわち、「懐疑主義とは正解を持たない態度である。」ということ。あるいは「全てにおいて正解を持つ態度である。」もちろんこの「正解」を「不正解」に置き換えても同じことです。あらゆることの正当性に対して懐疑的であり、あらゆることの不当性に対して懐疑的である。

この態度は優しいと言えるかもしれません。なぜなら何も否定しないからです。多様性の謳われる今日の世界でも、マイノリティは弱者です。「普通」、「常識」、「当たり前」そんな言葉に追いやられ、行き場のない人に対しても平等であることが、懐疑主義の美点でしょう。彼らを肯定することはなかろうと、否定することもありません。ただ、存在をそのものとして認めること。そんな優しさが見出せるかもしれません。

 その一方で私はこうも捉えています。「懐疑主義」とは逃げである。

 否定も肯定もせずただ静観する。それは誰かを傷つけることはありません。そして何より自分が傷つくこともありません。批判も否定もされ得ないからです。何かを「信じる」ことは「選ぶ」ことです。「選ぶ」ことは「捨てる」ことです。疑っている限りは何も捨てずにすみます。いつまでも可能性の中を浮遊していられます。ですが、この態度がすなわち、何かを語ること、あるいは決めること、それらが孕んでいる「間違っているかもしれない」という可能性と向き合うことからの「逃げ」のように思えるのです。

 イノベーションは疑うことから起こると言えます。それまでの常識や価値観を疑ってみる。芸術にしろ、学問にしろ、あるいはそれ以外の分野でも、疑いが発展、進化へと繋がって行くことは事実でしょう。ですが、疑っているだけでは前には進めません。疑うことが「賢さ」であるならば信じることは「強さ」です。批判に、間違いに向き合う覚悟を持つことが、信じるということなのだと思います。

 まとめます。疑うこと。それは優しさであり、逃げでもある。だけどどこかで何かを信じる勇気を持たなくてはいけない。信じたものが誤っている可能性と向き合いながらも。

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。もちろんここまで書いたこと、その全てに対してもまた、懐疑は向けています。とは言え、私自身、この思想のせいで自縄自縛の袋小路かと言われればそれは違います。そうでなかったら、仮にでも、こんな風に記事を寄稿できません。もちろん堂々巡りに陥ることもありますが、いまは懐疑との一番良い向き合い方を模索している最中です。なろうとして懐疑主義になったわけではないのでなかなか難しいのですが…。ただ、「疑う」ということも「信じる」ということも皆さん、意識的にしろ、無意識的にしろ行っていることだと思います。それ自身をメタな視点から見つめ直してみると、自分の本質や大切なものが見えるかもしれません。最も、私の見付け出した本質は「逃げ腰」だったわけですが(苦笑)

〈文=慶應義塾大学 文学部 3年 鈴木〉