実験室と社会の狭間には「死の谷」が口を広げて待ち構えている。
「死の谷」この物騒かつ不気味な用語は、ここでは実験室での研究開発がそのまま工業的な成果に結びつくわけではない、という経験則をさしています。
実験室と社会の間に「死の谷」が生まれてしまう理由は様々ありますが、一つの例として「スケールの違い」が挙げられます。
白衣にゴーグルといった風体で、実験にいそしむ化学者たちを思い浮かべて下さい。彼らが社会にとって有用な、人類の未来を照らすような新素材の開発に成功したとします。
しかしこの新素材の合成反応が成功したのはビーカーの中、せいぜい100ミリリットルといったスケールでの話。同じ反応を化学プラントの反応槽で実現するには、馬鹿正直に容量だけを増せばいいのではありません。
(もしあるとして)100キロリットルのガラスビーカーを持ってきて同じ反応を起こそうと思ってもうまくいかないでしょう。熱の伝達や物質の移動といった要素まで含めて設計する必要があるからです。実験室から化学プラント、10万倍というスケールの壁を乗り越えるのは楽ではありません。
こういったギャップを解消するために発展したのが「化学工学」という分野です。この手法を使って、大量生産プロセスの設計を行えるからこそ、必要な物質を生産し社会に供給することが可能になります。
このように科学の発見を社会に寄与するためには技術の介在が必要だという事です。
実際に人類の歴史の流れを、私たちの先祖が原始的な生活を営んでいた時代からさかのぼって俯瞰してみると確かにそうなっています。そして、その発見をまとめ、さらに未来の歩みまでも予測しようという試みが、SINIC理論と呼ばれる理論です。これは一体どのような理論なのでしょうか。
目次
- 種・刺激・要求・革新・円環的発展
- 過去の歴史を見てみると… ~炭坑→蒸気機関→熱力学~
- 驚異的精度の未来予測
- まとめ
種・刺激・要求・革新・円環的発展
SINIC理論の主な主張は「科学・技術・社会は相互に影響を及ぼしながら円環的に発展してきた」という事です。
SINIC理論では、「科学」、「技術」、「社会」の関係性を次のように位置付けています。
(出典:オムロン公式ホームページ [1])
「SINIC」というのはSeed(種)、Innovation(革新)、Need(要求)、Impetus(刺激)、Cyclic Evolution(円環的発展)の頭文字をとったものです。
ある時は科学が技術発展の萌芽となり、その技術が社会に革新をもたらす。またある時には人々の新しい価値観が新技術を必要とし、技術開発が科学研究への刺激となる。そしてその営みは、人間が成長しようとする思い、つまり「進歩志向的意欲」が中心に存在してこそ進んで行く―。
SINIC理論が言っているのは、このように3つの分野が時に原因となり、結果になるという双方向性をもちながら、各領域が円環的発展を遂げる、という事なのです。[1]
過去の歴史を見てみると… ~炭坑・蒸気機関・熱力学~
この壮大な理論が主張する、科学・技術・社会関係性を実感するために適していると思われる例をひとつ挙げます。
16世紀のヨーロッパでは鉄需要に応じる形で炭鉱の開発が盛んになりました(鉄の精錬には石炭が必要なため)。それに伴い、炭坑作業であふれ出てしまう地下水の排水を目的として蒸気機関も広く使われるようになったのですが、この蒸気機関はすこぶる燃費が悪かったようです。稼働させるには採掘した石炭のなんと三分の一近くを供給する必要があった、と言えばその効率の悪さがイメージできるでしょうか。
だから当時の炭鉱所有者たちは無駄を省き、さらなる利潤を求めるべく、より高性能な―馬鹿げた量の石炭をつぎ込む必要が無い―蒸気機関を求めました。その結果、蒸気機関の性能は向上し、さらに技術開発の結果、熱力学という分野の研究や体系化が一層進むことになりました。
この一連の流れはSINIC理論では「手工業社会」→「工業技術」→「近代科学」という部分に含まれると考えられます。
驚異的精度の未来予測
SINIC理論が初めて公の場に姿を現したのは、1970年に京都で開かれた国際未来学会議。電機メーカー「オムロン」(当時:立石電機)創業者の立石一真(たていしかずま)氏が提唱しました。[2]
SINIC理論の驚異的な点は、それまでの科学・技術・社会が発展してきた歴史を的確にとらえていただけでなく、その先にある情報化社会の到来や、機械と人間との共存、文明社会と自然の調和といったステップまで予測しているところにあります。
提唱されたのが1970年ですから、PCやインターネットでさえ普及していなかった時代です。その時点においてこれほどの予測を立てていたのは驚くべきことではないでしょうか。
まとめ
- 科学⇄技術⇄社会という観形成
- 人類の歩みを見ると確かにそうなっている
- 未来予測の精度が高い
次回の記事ではSINIC理論が描き出す、これからの社会について紹介したいと思います。
参考文献
〈文=早稲田大学 先進理工学部応用化学科 3年 千島 健伸(note)〉
当ライターの前の記事はこちら:「科学的な正しさ」と「感情的な共感」 ~東大発バイオベンチャー「ユーグレナ」の苦悩~
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