社会

日本ODAのはじまり――東南アジア関係の形成とコロンボプランへの加入

目次

  1. ODAとは?
  2. 日本の東南アジア開発を支援したアメリカの思惑
  3. 多国間援助機構コロンボプランへの加入
  4. 日本のODAの第一歩
  5. 結語

1.ODAとは

ODAとは開発途上国の社会・経済開発を支援するため、政府を始め、国際機関、NGO、民間企業など様々な組織や団体が行う経済協力を行っている。これらの経済協力のうち、政府が開発途上国に行う資金や技術の協力を政府開発援助(Official Development Assistance: ODA)と言う。ODAは、その形態から、二国間援助と多国間援助(国際機関への出資・拠出)に分けられる。今回の記事では、日本のODAの歴史を東南アジアの関係と多国間援助機関であるコロンボプランの加入の経緯に焦点を当てて、日本のODAの歴史を概観する。

2.日本の東南アジア開発を支援したアメリカの思惑

戦後、アジアでの影響力を強化したいアメリカは、日本をアジア戦略の要として位置づけ、ガリレオ・エロア資金などの資金援助などで日本の独立を支援した。1947年、中国の内戦で共産党側が優勢になると、アメリカは対中国の姿勢を強め、米国ハドル法(相互防衛援助統制法)に基づき、共産主義国に対する厳重な禁輸措置を取った。すると、戦前から原材料の供給地と製品の輸出市場となっていた中国の市場が無くなってしまい、経済復興の障害となった。更に、対米貿易では入超が多く、アメリカはその差額を援助で埋めていた。しかし、それでは根本的な解決に繋がらないと考えたアメリカは、日本の東アジア開発を支援した。その狙いは大きく分けて、2つの問題の解消にあった。1つ目は、中国と密接な関係にある日本に共産主義が入り込むことを防ぐことである。2つ目は、米国ハドル法による、厳格な禁輸措置による失われた中国の市場・資源供給の役割を東南アジアが担うことによって、日本の経済復興の停滞を防ぐことである。これによって、日本は東南アジアの原材料をアメリカと比べ安価で手に入れることが可能となり、アメリカにとっては日本のアメリカに対する輸入依存を回避することに繋がった。更に、東南アジアにもメリットがあり、アメリカと比べ比較的安価な日本製品を手にすることが可能となった。

3.多国間援助機構コロンボプランへの加入

そして、日本は1954年10月にコロンボプランに加入した。これが日本のODAの始まりだとされている。イギリス、オーストラリアは当初日本の加入に難色を示し、加入への打診は不調に終わっていたが、1954年7月にフランス軍がインドシナで敗退し、8年に及んだ戦争が終わったことから、共産主義の拡大に危機感を抱いたことやアメリカの斡旋があったことも影響して、イギリス、オーストラリアは日本の加入を認めることとなった。

日本の東南アジア開発援助のために使える国際スキームとして日本政府の念頭にあったが、国連による技術拡大援助計画、ポイントフォア計画も選択肢としてあった。しかし、国連による技術拡大技術支援計画のように援助国の資金が国連にプールされ、国連の方針のもとに援助が実施されるという多国間援助方式では、日本の目指していた特定の地域や分野に資金を集中的に振り分けることは困難とされた。そのため、日本の市場開拓や資源確保に繋がらないとした。一方で、アメリカの対外援助計画ポイントフォア計画は反共主義の政治色が強く、そこに参画することはアジア諸国の反発が考えられたため、日本にとって好ましい選択肢ではなかった。コロンボプランは前記の2機関に対し、2つの点で日本が進める経済自立化・成長政策を推進する上でふさわしい国際機関であった。1つ目は、コロンボプランの対象国が、イギリス連邦諸国であり日本の資源と市場の確保を目指して経済復興・自立戦略を展開する相手としてふさわしかったからである。当時、日本は多くのアジア諸国との戦後処理が終わっておらず、それぞれの国との貿易関係は正常化していなかった。そのため、賠償問題が存在しないイギリス連邦アジア諸国は日本が経済復興・自立のための資源と市場を望める国であった。2つ目は、コロンボプランの業務形態が日本の目的に適ったものであるということだ。同プランは、その枠内で、援助国が被援助国と直接双務協定を結ぶ方式を取っていて、援助にあたって援助国日本としての顔を正確に示すことができた。

4.日本のODAの第一歩

こうして、日本はコロンボプランを通じて、東南アジア諸国に技術援助を供与するという形で二国間ODAの第一歩を踏み出した。日本は援助国として参加したが、当時は資金的余裕がなかったことと、賠償問題が未解決であったことが影響して資金援助は見送り、研修員受け入れと専門家派遣からなる技術支援を供与する形に限定された。1961年版の外交青書(日本の外交の記録をつづった白書)では、加入から満6年経過した1960年末までに、日本はコロンボプランを通じて、278名の技術者・専門家を派遣し、444名の研修生を日本に受け入れた。そして、当初対象国はインド、パキスタン、セイロンなどの現在の南アジア諸国に集中していたが、日本と多くの国との貿易関係が正常化した1960年代末までには、タイ、フィリピン、インドネシアなどの近隣東南アジアにも専門家派遣・研修生受け入れが広まっていった。

第4章 まとめ

今回の記事では、日本のODAの歴史を東南アジアの関係と多国間援助機関であるコロンボプランの加入の経緯に焦点を当てて、日本のODAの歴史を概観することに着目した。その結果、アメリカが共産主義の浸透を防ぎ、米国ハドル法によって失われた中国市場を東南アジアに転換させることによって日本の経済復興・対米輸入の赤字の解消に導こうとしたこと、コロンボプランに加入することによって、日本はODAの第一歩を踏み出したことが分かった。

<文=末田椋資>

【参考】
大海渡桂子,2019,『日本の東南アジア援助政策――日本型ODAの形成』,慶應義塾大学出版.
JICA,『ODA見える化サイト』, https://www.jica.go.jp/oda/allsearch/index.html, (2022年1月31日閲覧)

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